木, 9月 21, 2017
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運動学の概要紹介

運動学の概要紹介

 

1 運動学の目的

運動学は人間の運動実践における身体能力の限りない可能性を探求する領域です。人類は科学以前の運動実践のなかで多様な運動形態を発生させてきました。形態として発生する運動は人為的な構築を拒む本性を持っています。しかし、人は他人の運動の観察と自分自身で試してみること、そして先人の感覚的経験に学ぶことから後輩の運動発生を促す工夫をし、また、動感質を見分けるなかで発見された経験財の本質を捉え、後輩に伝えてきました。スポーツ共同体もこの運動伝承の場といえます。

運動学はこの運動実践そのものに宿る身体知を発見する努力です。それは、運動を外部的視点から捉える科学的研究に先立ち、<内在的>な動感体験の分析から人間の運動の発生と形成の<本質規則>を見出し、これらの諸規則がそこに根ざす原理を発見する<本質記述学>(フッサール)といえます。ここでは、運動する主体はブラックボックスではなくなり、その主体が「どのように」動いているのかが把握されます。この身体知は、運動の伝承実践において個人的な感覚世界に散在している知恵を集約し、学的に彫琢したものといえます。運動学は多岐にわたる具体的な運動形成を見渡し、導き、価値ある運動文化の伝承に貢献するための研究領域です。

2 超越論的(フッサール)立場

 人間は自己運動するだけでなく、これを内在的体験として「どのように」発生しつつあるか(動感感覚質の意味づけと価値づけ)を観察するという<能力可能性>を持っています。それは、あらゆる行為の発生と同時にその行為自体に関心を持つことなく観察する<無関心の傍観者>(フッサール)を立ち会わせる能力可能性です。他人の運動の観察においても、やはり観察する作用の「どのように」を見つめるこの傍観者を立ち会わせることができます。この能力可能性を自覚する立場で内在的な動感体験を分析します。

3 動感

 動感はフッサールの<キネステーゼ>を意味します。これによって、運動学の運動理解は精神物理(心身二元論)的な運動理解から明確に区別されることになります。運動学が新しい研究領域であることもこの動感によります。

動感は、<感覚しつつあることであると同時に、それを引き起こす運動の意識でもあり、私たち自身によって生み出される私たちの運動としての意識>(ランドグレーベ)と表現されます。動感は<感覚しつつあること>の媒体と理解できます。媒体としての動感そのものは姿を現しません。<動感感覚>(フッサール)という反復的表現も意識の最下層のこの根源的事態を表しています。私たちは自身の運動を、価値意識を含む<感覚しつつあること>として、始原的な時間意識のなかで「しかじかに動くことができる」と了解します。この了解は<反省>に先立つ了解であり、「コツが分かる」とか「カンが働く」といった表現はこの了解を意味しています。動感は選手や指導者の専門的能力として分化し、運動の自己観察や他者観察において働きます(動感化)。運動学は動感運動学です。このように、運動学では運動と感覚を別系列の作用と考えるのではなく、もとからの一つの働きとして理解します。

4 発生論的分析

この分析は動感の発生始原を求める分析です。動感形成体の形成史を含む個人の<地平>の重層的構造を<解体>1)し、これを遡って、この動感形成体の発生始原を解明しようとします。分析事例の経験を渡り歩き、動感形成体の発生始原に見出される<本質法則>を求めようとする分析です。<本質法則>を見出すことによって、将来に起こりうる経験の内実を「あらかじめ」擬似的に描くことができます。

競技スポーツの実践では、さらに、運動形態の社会的・歴史的な発生始原の分析が求められます。新たな動感の発生始原の究明は運動形成における焦眉の問題ですが、後者は社会的な力として運動の形態発生の歴史的原点で働いている運動判断とその時代的変遷を明らかにし、そこから、現在に暗黙裡に働く運動判断を浮き彫りにします。この両始原分析を踏まえて、運動学は未来に向かう運動形成を望ましく方向づけようとします。

1)動感には、現時点まで形成されてくるなかで培われた動感志向が潜在的に織り込まれています。形成位相論を背景にして観察すること、聞くこと、試すことによってこの潜在層の動感志向のもつれを解きながら、この動感の創発を<動機づけ>2)ている<始原身体知>3)に遡ります(地平分析)。

2)<動機づけ>は心理学の<モチベーション>とは異なり、受動的な<関心>を意味します。自身の覚えたての動きに夢中で取り組んでいる生徒が、この動きをさらに改善することに無関心である場合、この運動修正は<動機づけ>られていないといえます。

3)始原身体知は一般にいわれる基礎・基本の動き方ではありません。むしろ、あらゆる運動形態の発生の基盤となっている漠然とした体感的な時空間(今・ここが分かる、そこまでの隔たりが分かる、何かの変化の気配が分かる)の感覚です。ある運動形態を修正・改善して洗練化する場合には、始原身体知のさらなる充実が求められます。

5 形態規範

 運動はその形態によって他の運動形態から区別されます。運動形成においてはどんな運動も形成の途上にあり、より良い形態がいつも暗に希求されています。この規範は運動形態の発生と同時に生まれます。運動の<形態規範>は明確に区別される多様な運動形態とより高い習熟を志向します。

しかし、運動が何かの目的のために手段として用いられると、この形態規範は通用しなくなります。形態規範とは運動形態の<原型>に即して、発生する運動を判断することです。スポーツ運動の<脱目的性>(グルーペ)は、運動の形態形成の社会的あるいは個人的なあらゆる要求からの解放を意味します。この形態規範が運動の形成に<目的論>的に働く努力志向を方向づけることが望まれますが、運動形成の合目的的・経済的規範が時代を覆い、その時代の運動形成を左右する可能性を否定できません。

6 運動形態の淘汰

 私たちの運動判断の<受動層>にはそれと知らずにある運動形態を優遇する価値意識が知らぬ間に宿っていることがあります。ある時代と地域でこの意識が社会的な力となり、暗黙裡に運動形成に働いていることがあります。この力が異なる時代、地域と比較されるとき、ある時代と地域の運動形成を方向づける力の存在とその異なりが見えるようになります。

 スポーツの運動形態の形成にも社会的な形成力が働いています。特に今までになかった新しい運動形態が生まれるとき、それまでの古い形態との相克によって淘汰現象が起こります。走り高跳びの背面とび(1968)はその出現と同時に世界のジャンパーを魅了して広まっていきました。このとび方が以前からあるとび方よりも多くのジャンパーにとってより効果的であり、動きやすく、またより魅力的に感じられたからではないでしょうか。

スポーツ運動の形成における運動形態の<鋳型化>、<モザイク化>、<構築化>の運動理解はいつの時代も<否定的規範>として淘汰の法則となります。

この法則を拠点として、スポーツ運動の脱目的性を踏まえ、運動形成に目的論的に働く努力志向が向かう方向は、明確に区別される多様な<運動形態の共存>と習熟による<形態洗練化>、そして、実施の負担軽減による動感質の<形態簡潔化>です。

7 運動形成

 人間の運動は形成されるものです。この形成には反復が欠かせません。しかし、この反復には矛盾対立する二つの法則が交叉しています。反復による定着がなければ、これを土台としてさらに良い形態を発生させる基盤がないことになりますが、定着が進めばこれを解消して新たなより良い形態を発生させることがそれだけ困難になることです。これを解決するのは動感体験を<差異化>する能力です。運動の形成はこの矛盾対立を乗り越えるところにしか見出せません。

7-1 運動形成の目的論的構図

 運動形成は限りない熟練に向かう<目的論>的構図を暗に含んでいます。日本の芸道の修練においてはこの目的論が特徴的です。ある段階で目的が達成されるとそこから次の目的が見えきます。日本の弓道に身を投じ困惑した合理主義の哲学者オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』は、彼の師であった阿波研造師範の「<それ>が射る」の言とともに運動形成の目的論的構図を浮かび上がらせています。

 運動の形成位相論はこのような道を歩いた先人たちが、各位相に特徴的な動感体験の本質法則を記述したものです。運動文化の伝承実践にとっての貴重な遺産です。

7-2 能力地平

 運動の形成位相論は運動の習熟の段階を表すだけでなく、各位相における地平の構造を前提にしています。例えば、あまり訓練されていない運動は外見上整っているように見えても、少し困難な情況ではもろくも崩れることがあります。熟練の選手の動きは安定性や簡潔性があるだけでなく、突発的に変化する情況にも大きな競技会のプレッシャーにも対応できる能力可能性を秘めています。地平は起こりうる事態に対応できる能力可能性の幅といえます。サッカーのゴール前の混戦のなかで捉え難いチャンスを見出し、咄嗟にシュートを決めるなどの即興的なプレーや、チームの勝利がかかった大きな競技会の大観衆のなかでの、何事もなかったかのような体操選手の演技などが挙げられるでしょう。

指導者は生徒や選手の動きを見ること、彼らの発言に耳を傾け、また聞き出すこと、試してみることなどによる<移入>的経験によって、彼らの能力地平の広がりと構造をとらえ、動感発生を<動機づけるもの>を把握することができます。

8 促発指導

8-1 促発始原のスポーツ共同体

他人の運動発生を促す指導の動感の構造は単純ではありません。伝統的なスポーツ共同体に見られるように、動感連帯感は単なる仲良しの関係ではありません。<動感出会い>では指導者が選手の動きが出会うとき、好きな人の動きを模倣する幼児のように、<動きつつ動かされ、動かされつつ動く>という現象が起こります。この動感連帯感を形成することに指導者は努力を傾けることが大切です。これは、いわゆる練習態度などの問題と混同されてはなりません。

 このような動感共同体においてこそ<語りかけ、聞き合って双方向に語り合う>動感対話が成り立つことができます。ここではじめて、学習者が目標とする動感把握と指導者が伝えようとする動感が<準合致>に向かって動機づけられます。このことは、<私の作用遂行がその他者のなかにある種の共遂行を動機づけ、伝達を受け入れる作用を動機づけ、伝達の企てを承認する作用を動機づける>(フッサール)と表現されています。この動機づけが促発指導の起点になることはしっかりと確認されねばなりません。このために指導者には、学習者にとって十分な親和性が感じられる<なじみ地平>を構成できる能力が求められます。

8-2 移入

 移入的観察能力によって、指導者は生徒や選手の動きを<動感化>するという<受動的総合>を成し遂げることができます。他人がどんな情況のなかで、どのように動いているのか、そのときどんな感じがするのかを感じ取ることです。<身体で見る>とも表現されます。交信において聞かれる選手の話も<身体で聞く>と表現できます。巧みな問いかけによって、選手の情況把握や動感とそれらの判断を、この問いかけへの対応の仕方から理解できる可能性が与えられます。観察・交信において、指導者は選手や生徒の<地平>に侵入し、その形成位相に特有の動感形態を把握しようとします。この分析は前述の発生論的分析であり、発生始原において動機づける始原身体知を把握することが目的です。このための指導者の移入能力は訓練することができます。この能力も限りなく高まる<本質可能性>を秘めています。

 観察・交信における移入能力は、生徒や選手の動きを指導者自身が<潜勢的>に遂行する<代行>能力においてその極に達します。この代行の成否が促発指導の中核であり、<処方>もここが起点になるからです。この動感代行現象の発見は指導者の指導実践における内在的体験を分析解明した成果といえます。

8-3 処方

 指導者の構成する運動処方は具体的な生徒の動感身体がそれを受け入れることができなければなりません。したがって、その形態発生を受け入れられるレディネスを新たに発生させることになります。双方向的な交流のなかで、新たに発生させる動感を目標として指導者と学習者が共有することが前提となります。見落とされやすいのは、指導者も自身のこの運動共感能力の形成位相における位置を自覚し、この努力志向をいつも覚醒させていなければならないことです。

 選手は自ら動感の岐路に立つとき、自身で価値判断し自ら決断して方向を決めることができねばなりません。これも練習態度の問題ではありません。始原的な身体知なのです。さらに、そのときどきで捉えられる目標は<内在的>な動感質でなければそれに向かってのトレーニングを構想できないことになります。

この、共有すべき動感は指導者が学習者に提示するときも、学習者の即興的な模倣能力、映像媒体等の動感化能力の地平分析を通して、この学習者が受け入れることのできる提示の仕方が求められます。学習者が媒体提示を動感化する能力の指導法の研究が求められるところです。さらに、『五輪書』のように、文字媒体による動感提示の優れたものもあることは忘れてはならないことです。

 いつ促発指導をはじめるかということは、促発指導の成否を分ける重要な判断となります。この判断を誤ると指導者のそれまでの努力が水泡に帰してしまう可能性や、さらに学習者の指導者への信頼が失われる可能性もあります。起点を見出すとは、指導者自身の始原的な動感能力によって、学習者の<動機づけられた、促発起点となる動感形態>を見出すことです。選手やチームの受動的な関心(=動機づけ)を指導者が見出せる動感形態しか促発起点になりません。ここには、選手の将来を潰してしまうような悪癖の芽を摘むために、いつどのように促発指導して動機づけ、解消化能力を形成する起点とするか、といった難しい問題が潜んでいます。指導者のこの能力の形成については、まだ指導実践での多くの研究の余地を残しています。

9    文献

 『わざの伝承』   金子明友 2002  明和出版

 『身体知の形成』  金子明友 2005  明和出版

 『身体知の構造』  金子明友 2007  明和出版

 『スポーツ運動学』 金子明友 2009  明和出版

 『運動感覚の深層』 金子明友 2014  明和出版

(渡辺 伸 2015.4)